南 聡・制作日記
もぐらのたたき……なんかちがった!
(もぐらのねごと6 最終回)

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本番までいよいよ1週間!
曲順も決まって(ぼくは1番、みんなあきれて退出しないように….)
気持ちも引き締めて・・なんて感じですが
演奏するわけではないので、もはやまな板上のコイ。
今更何をじたばたできるのであろうか?

というわけで最後の記述ですね。
旋律というのを少し考えてみます。
理由は、作曲というとメロディを作るというのが一般的感覚ですよね
そしてメロディはイメージとして歌、歌うということと直結しています。

現代の作曲家たちは、あるいは現代音楽は歌を忘れてしまった音楽なのでしょうか?
ちょっとだけ検証してみます。

旋律はいわゆるメロディ、もとをただすとメロスmelosの概念と連なっています。
メロスの原意は(音楽の)構成要素、といったところで、プラトンは「分離しえない総体」と考えたにもかかわらず、しばしばリズムの対概念として継承され、発展して、時間の推移を異なる音高が分離することなく連続する状態を指すことになった、という理解で大体よいですよね。しかし、この音高の部分だけで語るのは、実際のところ音楽の知覚認識の本質としては不可能だということもよく知っていることです。つまり垂直関係の音の重なり方、音色(音の成分要素)といった問題と常に有機的関連を持っているからです。にもかかわらず旋律が語られるのは「記号化」されている、ということがやはりとても重要な意味があるのかな、と思いました。つまり「記号化」されることでほかの要素を暗黙のうちに排除し、記憶すると
いう作業が旋律の理解になっている、ということで、ある意味で西洋音楽特異の視点かもしれません
時間上音高自体のみならず音楽の複合的構成要素は時間軸上の持続を決して失うことはないので、旋律いわゆるメロディがない、ということはありえない、というわけです。
そこにあるのは「旋律」としてその輪郭を識別して記憶して楽しむことができない、という単なる個人的問題にすぎません。ただし一個人の問題にこのことを帰着することも乱暴な話です。

 要は旋律ではなく歌なのだろうと思います。
最初にイメージでつなげましたが、本質的には異なる概念だと思っております。
歌は人間の声と直結しています。人間の声によって表現可能な持続こそが歌だと思います。
そうしたとき、楽器をはじめとする、現代の発音体は人間の声を模倣しているというより、はるかに独自の発音体系をもっています。その差異が、音楽を歌から逸脱させる、と言ってもよいかと思っています。例えば音色な強度、速度などを出すまでもなく、音域、音程ですら容易に逸脱可能なのです。
でも
「鳥の歌」ていうのがあるじゃない、これは?なんてことは言わないでください、これは比喩ですから。
結局、器楽の発展によって旋律が歌の概念より大きく育ってしまった、ということでしょう。
旋律はあるけど歌はどっかいっちゃった、というのが簡単ながらの結論。

音楽の総体として大きな左右を与えないとしても、
人間が聴くのだから、人間の声によって表現可能な持続を拒絶して曲中から締め出す必要はないだろう、という態度は僕の作品のなかにはふつうに使うことにしています。
それはこの音楽を聴いてもらうための、識別して記憶してもらう曲中の道標の役割を担います。(しばしば、それは裏切りますが・・そういった態度は、ハイドンの疑似再現部の精神です)まあとにかく、人間の声の音域に対して、耳が一番敏感なのも事実ですから、そことの出し入れの緊張も、現代の音楽として大事かな、と感じています。

今回の作品でこの問題をさらに言うと、「歌」は「ふし」があってそれがそうだと理解できる、という事実から、その「ふし」の断片に、上記の役割が行っている、と構想しました。
さて、そう思ってもらえるかしら?

それでは、当日のご来聴をお待ちしております!!

2016年8月31日