南 聡・制作日記
もぐらのねごとあるいは計測可能な変は美しい3

 「癒し批判、前にも書いていません?」北海道芸術学会2015.JPE
 「えっ?あっ、そうでした!」進歩ありませんね。以前札幌での個展の折にも似たこと書きました。自己の態度表明なので、どうしてもそうなってしまうんですね。
居直ってさらに重ねましょう。今回言うところの「誘惑するための技術」は、前回の時に書いた「計測可能な“変”は美しい」という審美観のうえに成り立っていますから。

 そこで、
    今回は、
このあたりをもう少し自分勝手に書いていきます。

 基本的にアートの「美」は、人間は生物なのだから、結局のところ異性の選別の方向性に準拠しているのでは、と思っております。それは、判り易く視覚的問題に取り換えて言うと、生物自体の形態は、本質的にキラリティを持っていない左右非対称的存在なのだけど、対称性を持つと、より生存に有利な状況を得るため、種の保続のため対称性を得ようとする、という方向性だと思っています。すなわち太っていようが痩せていようが美男美女の傾向は、身体の左右対称の方向性にある、ということです。
 まてよ、たとえばピカソの「泣く女」の顔はひどい非対称的だけど「美」じゃないか、と言われそうですね。そう、人間は生物だから、完全な対称な造形に対して、同じ仲間、つまり生体としての識別を持たないのです。完全な対称、それはロボットさんですね。要するに均質で無機質な、いわゆる自然の美の範疇になってしまうと思います。

アートの「美」は、人間の創造で、神の創造とでもいえる自然の美に対極するものと考えています。例えば機械的リズム運動も単に無機質的持続では、美的興味をそそらせることができません。つまり、アートの「美」は非対称的本質が対称性を希求し近づきつつも崩壊部分を持っていることが肝要だということです。その崩壊部分が「希求の方向性」に対抗し緊張感を形成することによって「美の多様性」が生まれます。具体的に言えば、先ほどの無機質なリズム持続に肉体的抑揚が垣間見られたとき、有機的リズムの認識によって美の生成が起こる、ということです。 J.S. バッハの対位法の妙技も、その使用される主題が非均質的運動を持っていることが、対位法的組み立ての妙味になると思います。ただの同音反復だけや順次上行や下降だけの音型だったらばかばかしいだけ、というのがぼくのスタンスです。

 「変」はこの崩壊部分の規模によって感得されるもので、これが単に崩壊しているのではなく、「希求の方向性」と関係項を作るというのが、「計測可能」ということになります。
 現実的には、ぼくの場合、もう少しその関係項は狭く、その「美」が保証されてきた過去の遺産からの距離の計測が可能ということになるのでしょうか。そして、そこに緊張感が生まれなければ面白くない。「変」が単に「変」なのではなく、その「変」が「計測可能」であることが、ぼくにとって興味深いのです。「変」が計測のための詳細な観察を要求し、それによって美しさに至る、ということです。「美」は常に詳細な観察より生まれるのですから、正当な手続きでもあるとも思います。
…—「泣く女」好きです。かわいいじゃん。

今回の作品では、ことのほか「舞踏的運動」という部分で「変」の計測が求めやすいと思っております。オスティナート状のリズム運動が曲の個性に著しく貢献しています。が、それは「変」を計測する重要な因数 / ファクターでもあるのです。そして、それがオスティナート状であるがゆえに「誘惑」に適している、のです。何より人は、音楽を「記憶を活用しての時間遊泳」として体験するので、このオスティナート状という反復が、曲の中で「変」を得るために、どのような仕打ちを受けるかを、傍聴し易いのだ、ということです。

このあたりのこと、 10 年前の作曲当時のノートには、
「舞踏のための音楽 / 肉体的運動と機械的パッチワーク構造とが多層化していく」だって。

本当かなあ。

2016年6月20日