南 聡・制作日記
もぐらのねごと(あるいは悪徳のドカン・バタン)2

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 芸術は「あそび」の産物だったとしても、そこにすべてが集約するわけではない。ということも確かだと思います。「何を考えたか」というと、新たな刺激を求めて、といった「冒険的方向性」が「遊び」だとしたら、その対極にあるのは何だろう?と思ったとき、それはきっと「癒し」であろうと想定しました。「癒し」は精神の安定化を求めており、何より安心感が重要な要素です。

ここで「癒しの芸術」というのはあるのだろうか?という問を起こします。言い直すと、世間巷には「癒しを求めての新しい作品」なるものが、ポスト・モダンの用語とともに出てきます。そんなのありか?ということです。
人はどのような時に安心感を持つか?というと既知の事象に囲まれたときです。単純な例でいうと、知らない人に囲まれると不安になりストレスを感じますが、知っている人に囲まれると安心感に満ちます。生物なのだから機能として当たり前です。ここから語れるのは「既知だから癒される」ということです。「芸術に癒される」ということは「過去の芸術作品」にこそ当てはまります。具体例を示せば、「モーツァルトの音楽を幼少期より多く聴いてきた人が、モーツァルトの音楽に癒しを感じる」というのは自然な原理だということです。よってクラシック音楽の効能に「癒し」効果を語られるのも、この機能がゆえに間違いないことでしょう。

「芸術に癒される」それは「あり」です。でも「癒しのための芸術」というのは、上記に示したようにその効能から「既知感のための既知素材による芸術である」と表明したものになると思います。そうすると明らかに「癒しを求めての新しい作品」という言い回しは矛盾していると思います。それらは新しくない、いわば非創造的産物にすぎないレプリカの範疇、と考えます。確かに80年代レプリカの価値基準の転覆を図る動きも確かにありました。しかし、それらがデュシャンの「レディ・メイドに見出した」概念を超えてはいないと思います。非日常の中に置かれた日常、あるいはその逆、といった異化作用を超えた新たな概念を提出したわけではない、というのが僕の見解です。そして音楽の場合、ほとんどそこにすら至らなかった
貧しい技術の展示を味わうことが多かったように思います。結局のところ基本として、「既知感のための既知素材による芸術」は芸術が創造的である以上は有効ではありえないと思っております。

それでも人々はこのころより文明に疲れを感じ、ストレスの幅のない「芸術」として「癒しのための芸術」を夢見て求めたのも事実でしょう。ゆえに、シュニトケの万華鏡様式やB.A.ツインマーマンの多くの引用を用いた作品に注目が行ったといえます。そして、多くの聴衆がこれらの作品に好ましいと耳をそばだてたのは、その作品に仕込まれた異化作用よりも既知の音響が次々現れる現象のほうだったようにも思う、というのは言い過ぎでしょうか。

でもよいのです。

ストレス幅のない、というのはあり得ないとしても、ストレス幅の少ない、つまり「乗り越えられそうと予想されるストレス幅の形成」、という表現技術の開発を「創造的芸術」にも時代が求めた、というとらえ方でこの「癒しの芸術」という用語の真意を語ることができると思うからです。
この「乗り越えられそうと予想されるストレス幅の形成」ということを、僕はほかの言葉で「誘惑するための技術」という用語で語りたいのです。
化粧で誘惑する、というかんじかもしれませんね。ひょっとして悪徳です。たとえば薬を飲みやすくさせるために開発されたゼリーのようなもの、それがたとえ劇薬毒薬の類でもOKってね。ほら。

そんなわけで、
僕の作品に「癒し」を求められてもありません。が、「癒されそうかも…?」といった「誘惑」はあるかもしれません。それに乗って、是非、ツツモタセに引っかかったおじさんや、ジェリーが仕掛けた花火をドカンと口中で爆発させてしまってバタンとなったトムの気分を味わっていただけたらそれはそれで嬉しいなあ・・・
でも最初から「刺激」を期待したら、それは、まあ・・人それぞれかな・・・とりあえずね。
ほどほど刺激的。

2016年5月21日