南 聡・制作日記
もぐらのねごと(あるいはぼくは雑菌さ)1

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こんにちは 今回の出品者のひとりの南聡です。

 ぼくの場合、約10年前に作曲した曲をようやく人前にさらすことができる。という状況のため、他の方のように、今創作に打ち込んでいて大変というわけではないので、今回のコンサートに対して、あるいは自分の作品について、ときどき小文レポートを公開していきたいと思います。ただし、コンサートについてなんか言っても、4人の共通認識ではないことも多々あると思います。あくまでも南の目線です。あまり世の中、東京の音楽事情見えていない人の目線です。よって「もぐらのねごと」として書かせていただきます。

ちらしに
脱「現代音楽」に向って
と書かせていただきました。
今更なんじゃ?と思う人もいれば、南の音楽から「現代」ぬいちゃったら何が残るの?と言った声も聞こえてきそうですが、脱「現代音楽」という概念は、もう一度「現代音楽」をぼく自身として考え直そうという試みです。

たとえば、
①教養主義的に知的な技巧性を主体に発展させた「近代芸術音楽」の概念は現代の音楽文化においてパラダイム・シフトしたか?
ということについて考えてみます。

確かにパラダイム・シフトした、という感覚は、一般的には多く見受けられるようにも思います。その感覚が、今回の脱「現代音楽」という用語を導き出しやすくさせてくれたのですが、これは現代に蔓延する飽和感が生み出した感覚に由来するものでしょう。つまり、この飽和感とは、インターメディアによる音楽の大衆消費社会の確立によって引き出されたモダニズム運動の終焉感覚と言い換えても良いと思います。これは、現代に生きる人の感覚としておそらく「常に」正しいでしょう。
一方、昔、偉い先生が、「作曲家は三善晃くんで終わった」とおっしゃったそうですが、これも実は「進歩主義は飽和点に至った」という意味で、同じ感覚が導きだした発言に感じます。このことから、どうやらこの感覚は、実際社会の表層として「常に」当然のようにあるものではないかなと思います。なぜなら表層の現象の理解は、現在から過去を展望し観察し解析することで得ることが主なわけですから、常に現在が飽和点のはずです。さらに加えれば、本質的に未来は常に想像的であり創造的視点を要求されるため結果がなく現象に加担できないのです。ですから、実はモダニズム運動とは、大多数の人たちが、過去の参照から未来に対して容易な想像を共有するという、いささか楽天的な幻想にひたることができた状況にすぎなかった、と過去を展望することで認識することが可能になったという状況が、パラダイム・シフト感覚をもたらした、とその感覚の「正しさ」について説明したいと思います。では、本当にその感覚どおりにパラダイム・シフトしたのか、ということをチェックしようとするならば、もう少し立体的な視点も必要になるでしょう。

今回の用語、脱「現代音楽」をもたらした、社会現象としてのモダニズム運動と連動していた「現代音楽」が終わった状況でしばしば語られる「音楽文化の西洋芸術音楽からのパラダイム・シフト」は、社会史のなかで「常に」用語を微妙に変化させつつ繰り返され続けている現象とおおきな質的変化はないのだから、観察や解析よりも想像に重心を置く作家たちにとっては特別な問題ではない、というのがぼくの立場です。すなわち芸術音楽という営みの本質からいくと、それがどうした?というだけのことになるかなと思います。

少し具体的に説明しますと、芸術音楽の定義は、その容量の規模のため個人差があります。したがってぼくにとって、を前提に進めさせていただきます。芸術音楽などの「文化的所産」は人間の「あそび」の領域での出来事です。「あそび」は高度な知能によってもたらされる行動で、生体の維持に直結しないものです。しかも「あそび」は創造性と直結し、繰り返し可能な規則性と、その規則性の予測を越える結果がしばしばもたらされ、適度な刺激が発生することによって成立するものです。
ですから学問も探求というその本質は「あそび」であり、文明的有用となるのは結果の話にすぎません。ましてや「芸術」は「あそび」以外の何物でもないわけです。
 ここでもし、知的な技巧性を主体に発展した「近代芸術音楽」の在り方の方向性が現代を迎えてパラダイム・シフトした、と言ったとき、「あそび」の持つ「知的要素による発展」という運動の拒否を意味する、すなわち、「あそび」の拒否が起こったと言っているように思えます。はたして人間は「あそび」をやめられるか?それは生体の維持が困難にならない限り無理でしょう。
 「あそび」には刺激が一番の根底的不可欠要素です。ゆえにスポーツはスリリングな刺激をより効果的にもたらすために、規範、ルールをも変更しながら発展していきます。
「新しければよい、というわけではないが、新しくなければ意味がない」というモダニズムの本質として紹介されるこの言葉も、少なくとも常に新鮮な刺激との出会いを求めるこの「あそび」の掟に則しており、モダニズムに縛られた言葉でもありません。もし、狭い意味との差異を求めるのであれば「新しさ」の意味にあります。かつてそれは氷山のように海面上の部分だけで捉えられてきたのですが、実体としての海面下の巨大構造が明らかになり従来の用語の概念におさまらない事実が発覚した、というレトリックで説明しても良いかもしれません。
 刺激をもたらす「新しさ」は、階層化した多層構造の中にあります。それらを識別するキーは依然として、キーであるがゆえに知的操作を要求しています。つまり、本質はかわれない。

では、何がぼくにとって脱「現代音楽」なのか、というと、「現代音楽」がアカデミズムの中に居場所を見つけ良い子になってしまったから雑菌であるぼくは困ったぞ、ということです。遊びの刺激は規範の順守からだけでは生まれません。良い子だけではなく悪役の「掟破り」が必要です。やはり雑菌ですから悪役希望というわけですね。さらに先に記したように現象的には「現代」は常に飽和状態です。そこからの逸脱を求めて脱「現代音楽」なのだと・・・たったこれだけのことのためにこんなに文字使ったの?とあきれられそうですね、ねごとだから許して下さいな。何より思考の経過のほうに意味が多少あるとも思いますので。

 今回は最初なので大きめの風呂敷でしたが、今度はもう少し身の丈にあわせたサイズで短くいきます。                        2016年5月5日