南 聡・制作日記
もぐらのねごと 4……しばらくぶりでごめんなさい

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もっとコンスタンスに書こうと思っていたのですが、なかなか思い通りにはならないようです。しかし、これからは、また書いていこうと思います。

僕の音楽とマニエリズモを引き合わせたのは、石田一志先生だったと思いますが、多分に初期の作品に《フランチェスコ・パルミジアニーノの手》というタイトルの作品があったことにも拠ると思います。 このタイトルはマニエリズモ時代の画家、パルミジアニーノの球形の鏡に映った自画像に由来します。具体的には、その自画像の特に、手前に置かれた手が球面によって異様な形状に変化している様を示した、タイトルでした。
当時、球体に映ったものを模写するという技巧性と、妙に子供っぽい顔に変形されてしまった頭部にみられる自身に対する美意識というか自己愛に興味をもったということで、実際には、曲との具体的関連性もなく付けたと記憶しています。

しかし、その後マニエリズモの用語は、しばしば僕と組み合わされてきました。
マニエリズモというと、故八村義夫さんが好んだ、あるいは標ぼうした、時代の精神的危機から起こる奇想性や退廃性、あるいは陰惨な美、といった衣装を常にまとっているので、自分自身はそれらの持つ異形ぶりは好きだけど、その衣装はちょっと自分とは違うな、と感じていました。僕はそんなに、表現主義的に内奥のなんとやらを白日の下に引き出してうんぬんというのは、ちょっと性に合わないかんじなのです。

そんなおり、若い友人の一人、杉山洋一くんが、彼が大学生の頃ですが、マニエリズモは語源的には、マノ(手)あであり、この用語には本来、単に「技法主義」的意味しかない、と看破して語ってくれました。自分の隣にひっついたこの用語の解釈として、まさに我が意を得たり、の思いになり、その後は積極的に付き合うことになったのです。そして、この「昼」とタイトルした、「再作曲」をコンセプトにしている作品群のスタートにもなりました。

今回の《昼Ⅴ》も、まさにマニエリズモ:技法主義が意識された音楽と言ってよいでしょう。まず、自作の過去の二つの作品が編みあわされていきます。イメージとしては、異なる体系の衝突みたいな感じなのです。二つの作品とは《彩色計画Ⅷ》と《帯/一体何を思いついた?》なのですが、この二曲にそもそもの音組織上の接点はありません。しばしば、機械的に裁断されてパッチワーク状に編みあわされたり、完全にブレンドさせて、新しい和音体系になったりして、そこから新たに別の音楽が発展していったりしています。これが再作曲という再構成方法であり、しばしば機械的操作の部分でもありました。
一方、この曲では、典型的なオーケストレーションの用法を、引用する技法として、まさにマニエリズモを地でいった作法として、ことのほか意識的にやっています。まさにパルミジアニーノがラファエロから書式や形状を引用してさらに独自のものに昇華させたようにです。
  それは内的精神の高揚というより、変態的技巧への執着としてです。
 この執着は、まさに公明正大であることへの拒否、いわば「かぶいた」精神によるもので、
そして、それはいたずらっこのそれとあまり変わらない程度の屈託ない幼児性を伴った好奇心のなせる業です。

 結局こうやって、自分にまとわりついた用語は、自分と仲良くやる関係に結局なってしまった、ということの証拠としてのこの曲があるのだ、と今は感じてます。

その後の
ポスト・モダンも自らはあまり感じていないのだけど、やはりつきあっちゃうのでしょうね・・・

2016年7月29日