南 聡・制作日記
もぐらのねごと 5……分析はねごとだったりしてね。

動的構成を求める。というのも最近のぼく自身の重要なモチーフです。41NmLqATqyL.jpg
しかし、これはことのほかぼく自身の中でも曖昧なままです。

元々初期において、平面的で静止的な、言い換えると図形的音像を構想し作曲することが多かったことも関係しています。若い頃そもそもアレグロな楽想を作曲することに違和感がありました。特に日本人気質を意識して、なのだろうと思いますが、ゆったりとした時間の流れや、「間」を感じることに美感を満足させていたところがあります。
それが、少しずつ、変化していったわけですが、その契機に楽曲分析への疑問なども関係しています。

楽曲分析とその分析結果は、学問的絶対性を持っているように思われがちですが、実のところ、「楽曲解釈」、すなわち、分析者がその曲をどのように理解したか、という個別的なものであり、その解釈は、多様な演奏方法の可能性をもたらすのと同等に、「絶対正しい」解釈はない、という事実を理解したことによります。

たとえば、 20 世紀初頭の有名な学者、シェンカーによる、ベートーヴェンの第 9 交響曲第 1 楽章の第 1 主題の分析的解説とベートーヴェンの最後のピアノソナタ、作品 111 のハ短調ソナタ第 1 楽章の第 1 主題の分析的解説との間にある矛盾などは良い例です。
この二曲の主題構造はいずれも「冒頭動機部分から序奏的敷衍による高揚が作られて本体のカデンツ構造楽想が出現する」という同じ仕掛けの構成になっています。正しく言うと、ベートーヴェンは、ピアノソナタで実験準備したことを交響曲でより洗練された形でアイディアを使い直した、ということで、熱情ソナタと第 5 交響曲との関係をあげるまでもなく、彼の標準的制作態度です。
にもかかわらず、ピアノソナタでは、アレグロに入ってからの「冒頭動機部分」からカデンツまで全体を主題とみなし、一方の第 9 では、空虚 5 度と下降音型の「冒頭動機部分」とそれに続く部分を「主題」から切り離し「主題と不可分の序奏部」として、主題を「本体のカデンツ構造楽想の部分」だけと、全く異なる捉え方をしています。これは、ぼくから見れば、象の鼻を違う捉え方をした矛盾だと思います。つまり、象の鼻はいかに長くその機能が人間の手の役割をしていようが、これは「鼻」だ、という考え方と、その機能は手と同じだからこれは「手」である、という考え方が、一人の学者の中で同居している矛盾です。では、なぜそのようなことに彼は違和感がなかったか、というと、作品 111 にはマエストーソという復縦線で区分した立派な序奏部がその前にあったので、間違えようがなかったからです。この矛盾を理解してか否かはわかりませんが、諸井誠は作品 111 のほうも「本体のカデンツ構造楽想」部分だけを主題とみなす考えを提案しています。しかし「生成していく主題構造」は、ほかのベートーヴェンの楽曲にも多数あり、それらと矛盾してしまいます。結局「鼻」は顔の部分で「鼻」なんですよね。

何が言いたいのか、というと、「楽曲分析」はこれくらい適当なものなのです。まず、用語が不統一で、第 1 主題や第 2 主題などという用語に明確な定義がなされていない、という根本的欠陥がある、ということです。
たとえば、全音刊のラヴェルのスカルボには、三善晃と石島正博の分析が掲載され、この曲の調を嬰ト短調と記しています。暗く不気味な気分、あるいは冒頭を主調と呼ぶのであれば嬰ト短調は正しいでしょうが、全体を支配し帰結点となっているのは紛れもなくロ長調です。実際、彼らが主題 B と言っているのを第 1 主題、主題 C を移行楽想、主題 D を第 2 主題と捉えると、すんなりロ長調のソナタ形式の枠組みが現れますから、言わずもがなでしょう。そして、これは、主調の定義があいまいだからこそ起る楽曲分析の典型的欠陥と言えます。

しかし、こういった内在するソナタ形式を知っても無意味であり、単に弁当箱の中の区分を示した程度にしかなりません。こういった図式的な話ではなく、その図からの動的な逸脱こそに創意の本質を求めようというアプローチに意味を見出したいという話です。
では、どのように、こういった疑問から、異なるアプローチ、いわゆる動的構成を求めるアプローチがあるのか、というと

せっかくなので別の例を出します。
ベートーヴェンの第 9 とブルックナーの第 9 の主題構成が似ているので、ブルックナーはモデルからのまねっこの範囲、と思われがちですが、楽章の中で、全く別の創意によって異なる構築美を形成しており、ここにはあきらかに、ベートーヴェンからの飛躍した独創性が見出すことができます。そしてその形態が、ブラームスがベートーヴェンの第 9 から受け取り発展させたアイディアとかなりの共通項を持ちます。このあたりは仲悪くても同時代性というのでしょうか。しかし、他の二流作曲家たちは、それを理解していないスコアを残しているだけなので、彼らは「それを理解していた」選ばれた少数者だったとも受け止められ、この差異こそ重要なカギと思うのです。
なんのこっちゃ、という感じなので、もう少し具体的に説明すると、ベートーヴェンの第9の冒頭空虚 5 度はドミナント、主題確保でトニカ、展開部の出で再び主調のドミナント(これは展開部が異なる調より開始される古典的セオリーに対してフェイントをかけており、ブラームスの交響曲のソナタ形式における二重提示部にみせかけて展開していく手法の源泉的根拠となっています。)そして再現部で、欠いていた和音の第 3 音を含んでのフォルテッシモ。と「楽想の存在」が、霞が晴れて眼前に迫る、というドラマティックな音楽的ストーリーを構成しています。素晴らしい物語のアイディアだと思うわけです。そしてそのことが、全体の「序」の役割を見事に演じている楽章になっているのです。さすがすごいだ、ですね。
一方のブルックナーは、ベートーヴェンのようにドミナントとトニカで繰り返すかわりに、神聖な3によって分割された 3 種の楽想として第 1 主題を提示しています。そして、何よりも彼は展開部と第 1 主題再現部をブレンドしてしまうのです。そのため、第 1 主題の「本体のカデンツ構造楽想」は展開部の中で、まるで、ハイドンやモーツアルトたち古典派の交響曲に仕掛けられていた「疑似再現」的効果を持って再現されます。そのため、古典的展開部の最後に仕掛けられるドミナントのオルガンポイントは、その後の移行部再現の部分に置き換えられ、第 2 主題再現で、ようやく調構造として正しく再現部に落ち着くという、「ソナタ形式」を逸脱した美しい「独創的なソナタ形式」を示していることに、ぼくなどは、えらく感動するのです。やるじゃないかアントン!
話が長くなりました。が、今、ここに書き込んだ分析への視点こそ、単に平面図的に形式をとらえるのではなく、モデルからどのように楽想の希求に合わせた創意によって変形変態化なさしめるか、ということが「動的構成」へのアプローチの考え方の一歩であり、最初の形式、あるいは構成、構造のモデルからの逸脱をさらに異なる視点から再構築して創意ある形式、あるいは構成、構造を得る手掛かりだと主張したいわけです。

そして、ぼくにとって、静的な構成以外の音楽に積極的に関与していく契機になった、ということですかね。                             8月18日