生い立ち

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生後半年。いつもニコニコ機嫌のいい赤ちゃんだった

1956年9月20日、東京山の手の国家公務員の長女として生まれる。3才くらいまでの私は、陽気で人なつこい、とても愛嬌のある子供だったらしい。当時の写真はどれもうれしそうにニコニコ笑っている。5才でオルガン、6才でピアノを始める。初めて弾いた曲集は「たなかすみこ」さん著の「いろおんぷ」。一挙に音楽の楽しさに目覚め、将来の夢はピアニストに決定。小・中学校を通して、クラスの音楽の時間や合唱部、PTAコーラスなどの伴奏を一手に引き受ける。合唱コンクールや音楽祭などにもよく伴奏者として参加したが、入賞経験は一度もない。小学校高学年よりヴァイオリンも始め、最初の2〜3年めきめき上達したものの、途中からついたエライ先生の厳格なレッスンになじめず、鈴木バイオリン教本の10〜11巻あたりで撤退。

中学3年。将来の夢はピアニストだった

 中学では合唱部の伴奏のほか、短期間だがブラス・バンド部にも所属、あやしげなフルート奏者でもあった。高校は都立芸術高校音楽科ピアノ専攻に入学。音楽科は一学年合わせて45人しかいなかったため、3年間同じ顔ぶれで過ごす。私の学年はたまたま全員女子で、ほとんど開放的な女子校のノリであった。個性が強いが抜群に面白い友人達に囲まれて、自由気ままな楽しい高校生活を送る。宿題でモーツアルトのコンチェルトのカデンツを何気なく作ったら先生から絶賛され、気をよくして作曲に興味を持ち始める。文化祭で影絵ミュージカル「クリスマス・キャロル」の作曲を担当。ピアノは相変わらず大好きだが、徐々に西洋の名作だけでなく自作を弾きたいという思いが強くなり、ついに本格的な作曲の勉強を開始する。高校をピアノ科のまま卒業後、一年間作曲の勉強に没頭する。



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大学4年。プロ作曲家を目指してがんばっていた

1976年、一浪で東京芸術大学作曲科に入学。1〜2年次はクラシック・サクソフォーンの典雅な音色に夢中になり、サクソフォン・ソナタ、サクソフォン・カルテットなどを立て続けに書く。3年からはオーケストラに熱中。文化祭で自作オケを発表するなど、それなりに張り切った大学生活を送る。4年次のオーケストラ作品試演会では「管弦楽のための一章」が、芸大卒業記念演奏会では管弦楽曲「壺天」が、作曲科首席卒業作品として芸大管弦楽研究部により初演される。大学院は週に一度くらいしか行かず、その変わり3年も('80〜82年)在籍して終了。このころ日本音楽コンクール作曲部門(管弦楽曲の部)入選。院に在籍中、混声合唱組曲「方舟」、全日本吹奏楽連盟課題曲「序奏とアレグロ」を作曲してプロ・デビュー。そのままフリー作曲家の道を歩み始める。